忍者をつとめた松尾芭蕉 [雑談ネタ#46]

日本史に忍者が最初に登場するのは7世紀の初め頃。古い記録によれば「細人」とかいてシヌビと読ませる言葉が出てくる。
聖徳太子による細人利用以来、歴史の陰には常に諜報者としての忍者がいた。
忍者といえば伊賀者が有名だが、昔から伊賀は国主のいない自治区域であり、多数の忍者を出してきた。

忍者たちは世を忍ぶ仮の職業である「表芸」をもち、ふだんは大道芸人、香具師、猿回しなどを営む。これらは「七方出(しちほうで)」と呼ばれ、最も格の高いのが芸術家。たとえば伊賀出身の猿楽師観阿弥は足利義満に、そして世阿弥は足利義正に諜報者として仕えたが、俳聖・松尾芭蕉もまた然りらしい。


芭蕉の生まれた家は伊賀国で代々連歌師としてきこえた名家である。
当時は支配層から庶民にいたるまで連歌ブームの時代で、連歌師はいろいろな階層の人間と接触する機会が多く、情報を集めるには格好だった。

芭蕉が忍者だったことを裏付けるデータは多い。
まず、芭蕉は伊賀から江戸へ出ているが、生活費がどこから出ているのか不明で、各地へ旅した際の費用も出所不明。
『奥の細道』を調べると1日12里(48キロメートル)も歩いているが、並大抵の人間には無理な距離だろう。だいたい漂白の詩人がなぜそのように急ピッチで移動する必要があるのか?
また、旅行先のほとんどは外様大名の領国であったことを考えると、芭蕉が創作上の目的とは別に、何らかの諜報者の役割を担っていた可能性は高いといえよう。